まとめ17/18上級

心相 — 読み方を学んだ後に手放すべき場所

「顔立ちは吉凶ではない」と釘を刺した一文は、人相学の外から来ました。

人相を扱う文章は、ほぼ例外なくこの言葉で締めくくられます。「觀相不如心相」。顔を見ることは心を見ることに及ばない、という意味です。私たちもここで終えようと思います。ただ出典から正確に確認しておきます。

結論から申し上げます。この一節の原文の出典は確認されていません。韓国では《麻衣相書》の一節として定着し引用されていますが、どの篇のどの章なのか示された例は見つかりませんでした。「相が良いのは体が良いのに及ばず、体が良いのは心が良いのに及ばない」も同様です。(存在しないと証明したわけではないので、 確認されていないとだけ書いておきます。)

ですが同じ趣旨の文章は、はるかに古い場所に実在します。《荀子》「非相」篇です。

「相形不如論心, 論心不如擇術」
生まれつきの姿形を見るのは、心を論じるのに及ばず、心を論じるのは 方法を選ぶことには及ばない。

ですが、ここで止めてはいけません。この後にはこう続きます。「容姿が醜くとも心根が善ければ君子となるのに差し支えなく、容姿が良くとも心根が悪ければ小人となるのに差し支えない」。そして結論は 「長短大小、美醜という生まれつきの姿は吉凶ではない」です。

もっと大事なことがあります。「非相」は人相学を擁護する文章ではなく、退ける文章です。篇の名前からして 相を否定するという意味で、書き出しはこうです。「人の相を見ることは昔の人にはなく、学のある者は語らない」。心相を裏づけるものとしてよく引用されるあの一節は、実は 人相学を批判する文章の中の一節だったのです。

荀子は聖人として数えられる人物たちの容姿をわざと並べ立てたりもしました。孔子の顔立ちは仮面をかぶったようで、周公の体は切り株のようで、皋陶の顔色は皮をむいた瓜のようだったと。堯は背が高く舜は低かったという対比も、あわせて置いています。

この箇所を「醜い聖人」の話として読むと、まったく逆の意味になります。荀子の要点は外見の優劣をつけることではなく、見た目と人柄は互いに対応しないということを示すものでした。(ちなみに「仮面」という解釈は本文ではなく、後代の注釈に基づくものです。)

確認できる文献と、広く知られていても出典が見つからない言葉とを、分けて示しました。

心相という言葉そのものからできた文章もあります。《心相篇》です。冒頭の二句はこうです。 「心は顔の根であるから、心を観察すれば善悪はおのずと現れ、行いは心の表であるから、行いを見れば禍福を知ることができる」。 ただ、この文章の本文の大半は顔の部位についての話ではなく道徳の箴言の羅列です。清代の陳宏謀が《訓俗遺規》に収めたことで広く読まれるようになったと伝えられますが、人相書というより 風俗教化のための文章として流通したというわけです。

運命は定まっていない」という話の代表作は、《了凡四訓(りょうぼんしくん)》です。明代の袁黄が六十九歳の頃、息子のために書いた家訓です。彼は若い頃、ある占い師に科挙の成績や官位はもちろん、五十三で死に、子がないだろうということまで予言され、しばらくはその通りになったと自ら記しています。 三十七歳の頃、雲谷禅師に出会い、「運命は自分で作り、福は自ら求めるものだ」という言葉を聞いて考えを改めました。その後息子を授かり、七十四歳まで生きたというのがこの書の結末です。

本人が息子に残した自伝的な記述なので、外部で検証する方法はありません。面白いのは、その方法がとても具体的だという点です。雲谷禅師が授けたのは功過格、つまり善行と過ちを日々項目別に書き留めて数える帳簿だったのです。(袁黄が作ったわけではなく、流行させた人です。)ちなみに彼は、壬辰倭乱の際に明軍の参謀として朝鮮に来ていた人でもあります。

ここまでが確認できる文献です。次は広く知られているけれど事実ではないことを整理します。このトラックがずっと行ってきたことですから。

「相由心生」は仏の言葉ではありません

《無常経》由来として紹介する文章がとても多いのですが、唐の義浄が漢訳した《仏説無常経》の全文にこの一節は見当たりません。経の実際の内容は、老い・病・死の無常と臨終についてのものです。《無常経》自体は実在する経典で、問題はその経にない文章を経の名で引用している点にあります。他の出典を挙げる説も相互確認が取れておらず、今のところ典拠は不明と記すのが正直です。

「一行禅師が裴度に」は、年代が合いません

唐代の僧、一行は683年頃に生まれ727年に入寂し、裴度は765年に生まれました。一行が世を去ってからかなり後になって裴度が生まれた計算になるため、二人の対話は成立しません。有名な二人が後から物語に結び付けられたケースと見られます。

裴度の玉帯の話は正史ではありません

裴度は唐の憲宗の時代に実際に宰相を務めた人物です。ただし、人相見に凶相だと言われた後、拾った玉帯を持ち主に返したところ人相が変わったという話は、正史の列伝ではなく、後世の随筆や戯曲によって伝えられた説話です。最初に載った書物が何かも、元代雑劇の作者が誰かも、資料によって食い違っています。

「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない」をリンカーンの言葉と断定するのは難しいです

確認できる最も古い記録は1891年のある回顧録で、そこには陸軍長官スタントンが先にそう言い、リンカーンがそれを受けて似た言葉を返したと記されています。リンカーンの死から26年後、他人の記憶をもとに書かれた一件にすぎません。似た言葉はその後もシャネル(1938年)、オーウェルの手帳(1940年代末)、カミュの小説(1956年)にそれぞれ別々に現れます。一人の名言というより、あちこちで繰り返し語られてきた考え方と見るのが妥当でしょう。

「夫婦は似てくる」は検証に失敗しました

心相の根拠としてよく引用されますが、1987年の元の研究は夫婦12組というごく小さな標本でした。2020年に517組を結婚時と20〜69年後の写真で比較した大規模な研究では、人による評定と顔認識アルゴリズムのどちらの方法でも類似の収束は見られませんでした。二つの結果は出発点からして逆です。前者は「最初は似ていなかったのに似てきた」で、後者は「最初から似ている方で、それ以上似てはこない」です。

では、現代的に説明がつくのは何でしょうか。たった一段階です。表情を作ると皮膚が折りたたまれ、同じ場所が長期間繰り返し折りたたまれると、表情を緩めても跡が残るということ。眉間や目元、額がその代表的な場所です。

ですが、ここからもう一歩踏み込んではいけません。 しわには年齢や日光、生まれつきの肌質の影響のほうがずっと大きいのです。そしてこの事実が教えてくれるのは、「どんな表情をよく浮かべていたか」までということです。なぜ、その表情をよく浮かべていたかどうかは性格のせいかもしれませんし、仕事や眩しい環境のせいかもしれず、顔だけでは分かりません。表情を作る力そのものも人によって違います。この一歩を飛び越えることこそ、人相学の昔からの落とし穴なのです。

現代の研究も同じ場所を指しています。心理学者アレクサンダー・トドロフが示したのは、人は顔を見て、驚くほど一致した印象を作り出すということであって、その印象が正しいということではありませんでした。 合意と正確さは別物です。そしてより重要な二つ目の要点は、その不正確な判断のせいで 実際に不利益が生じるということです。面接で、裁判で、初対面の場で。

ですから、このトラックの最後の一文はこう置くことにします。「心を美しく使えば顔がきれいになる」という意味ではありません。それは心相の趣旨をまったく逆さまにする言い方です。荀子が挙げた例は、まさにその正反対でした。要点は 顔の美醜は人を判定できないということでした。

「心さえ改めれば運が開ける」というのでもありません。 その言葉を裏返せば、今つらい状況にある人にあなたの心のせいだと告げる言葉になってしまうからです。

十四の単元を歩いてこられる中で、三停を測り、五岳を見比べ、十二宮をたどり、鏡の前で部位を選んでこられましたね。そうして読み方を学んで初めてわかることがあります。どこまでが読み取れるもので、どこからが読み取れないものなのか。

心相は人相学の完成というより人相学が自ら引いた境界線に近いものです。前の十四の単元を否定するものではありません。読み方を学んだ人だけが、読まなくてもよい場所を見分けられるという意味です。その立ち位置から人を見ていただければと思います。

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伝統的な人相学に基づく参考・娯楽目的のコンテンツです。外見に順位をつけたり、決まった運命を明かすものではありません。

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